ワイルド・サイドを往く

”自分の”、”””””自分の”””””思った事を書く場所。好きな事や嫌いな事、コンテンツへの感想や思った事、気になってること、なんとなくもやもやしていること、果ては常人やそれに近い人が見るとウワァと思うであろうこと。人より文章の質や洞察力が劣ったものが出てもそれは仕方がないとして下手な背伸びはせずに書いていく。

【星を継ぐもの】ひょっとするとこの気持ちがセンス・オブ・ワンダーって奴か!【途中までネタバレなし感想】

「星を継ぐもの」を読んだ。

 

 このタイトルに関する最初の記憶や印象は、長いようで大して長くないインターネット潜り歴の中ぼんやりとなんとなく見たことがあるようなないようなタイトル、といったとてもおぼろげなものだった。そしてそれはクソゲーと名高い「星をみるひと」と混同していたことによる誤解であると気づいたのは、メタルギアシリーズやボクらの太陽シリーズ、最近ではデス・ストランディングでも有名な小島秀夫監督の著作、「創作する遺伝子:僕が愛したMEMEたち」で一番目に紹介されていたからだ。

 

『月面調査員が、真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。綿密な調査の結果、この死体はなんと死後5万年を経過していることが判明する。果たして現生人類とのつながりは、いかなるものなのか? いっぽう木星の衛星ガニメデでは、地球のものではない宇宙船の残骸が発見された……。』

 

 これは様々な販売ページ等に載っているあらすじだ。この情報の量は、創作する遺伝子で語られているものと大差はなかった。

 

「”ハードSFと謳われ”、”小島監督が絶賛”し、そうでなくとも”SF小説の金字塔”のような扱われ方をしているものが、このあらすじに提示されている二つの大きな謎に対し、SF小説として絶賛されるだけの答えを用意している」

 

 これはフィクションだ。だがSFだ。"サイエンス"だ。こんな大きな謎に対しフィクションでもサイエンス的な答えがあるのだ。ジャンル的に見ても、評判を見ても、期待する価値はあるし、読んで損はしない安心感があった。どっしりと「星を継ぐもの」は自分を待っているようだった。

 

 SF小説らしいSF小説なんてほとんど読んでこず、せいぜい洋画やゲーム、有名な伊藤計劃の小説ぐらいでしかSFを知らない自分にとって、これは十分に興味の惹かれるものだった。なんというか漠然と、「スター・ウォーズよりしっかりめなSFでなおかつ面白そう」という印象を抱いた。スターウォーズをディスっているわけではない。子供の頃から今でも大好きだ。"SWに関わっているディズニー"は嫌いだが、ダークサイドが目を覚ます前にこの話は止そう。

 

 ともあれ、作品を知り、興味も持った。買う理由は十分だ。買うまでに期間は若干空いたが、まぁ買って読んだのでよしとしてくれ。

 

 活字を読む頻度が最近は少なかったため、読むスピードはかなりまちまちだった。なにせ古い本ゆえに見慣れぬ言い回しや単語があったりしてつまづくし、SF用語や宇宙技術関連の用語もあったりして、正直書かれている描写をしっかり脳裏に想像できていたかというと”ノウ”だ。だがそれでも行ったり来たりを繰り返して物語を追うことはできる。そしてその物語、いや謎がなんともまた興味深い。

 

 そう、感覚としてはやはり、物語というより謎を追っている楽しさだ。謎とはつまり未知だ。なんというか、王道に未知を追うSF小説なのだ。近未来で、今現在にはない技術だとしても、その世界では科学的に成立している技術で、科学者たちが頭を悩ませ手足を動かし調査し考察し未知を追う。一つの謎が解明されたかと思ったら、新たに謎が見つかり、それを解き明かしたと思ったらさらにまた新たな謎が浮かび上がる…。それを繰り返して少しずつ答えにたどり着く。それを俯瞰的なポジションで追体験するのがこの「星を継ぐもの」だ。

 

 タイトルの意味に関して言えば、正直コンテンツが飽和しきった今じゃ根拠もなく予想しても当たらずとも遠からずではあったが、それでも最後まで読んだところ当たってはいなかった。そこは確実に期待を越えた点であると言える。

 

 活字慣れしていなければすんなり頭に入ってこないが、しっかり読み進めて得られる答えへと進む快感、そして答えそのものの、フィクションだがサイエンス的な、「起こりうるかもしれない、起こりえたかもしれない」性質。それらが合わさることで、”リアリティがありながらも面白いSF小説”に出来上がっていたのだ。……何十年も前に。

 

 なぜもっと早くこの本を知ることができなかったのだろう。もっと多感で可能性に満ち溢れていた時期にこの小説と、いや、このセンス・オブ・ワンダー(覚えたての単語言いたいだけ)と出会えれば、ひょっとするともっと違う自分がいたのかもしれない。

 

ここからネタバレ有。あと本編にほぼ関係ない自分語りに近いので注意

 

 小説書いたりゲーム作ったりして、”一つの異世界を作っている/作ろうとしている”自分としては、

「こんな古い小説で既に、SWよりは地に足ついてるSF的な視点で、地球外で人類の別の文明が栄えていたという設定が丁寧に描写されていた。そう思わせられた作品があった」

というのがなんとも読者として興奮したし作る側としてショックだった。いやマジでもっと早く知りたかった。中高生ぐらいの時に読んでればもっと自分の創作のヒントになったな~っていう思いがずっと心の中にある。

 ここで重要なのは地球以外の場所でってコトすよ。じゃあもしミネルヴァが滅んでなかったら? ルナリアンが戦争をやったり惑星間航法の開発に躍起にならないでよかったとしたら。(月に関してはちょっと目を瞑るとして)地球とミネルヴァの二つの星で同時に文明が栄えていたらどうなっていただろう。そしてその二つの星で栄えてきた文明がいずれ出会う時どうなるだろう。地球の文明もミネルヴァの文明も、圧倒的な差があるかもしれないし、ないかもしれない。そこにもそこ以外にも、想像次第でいろんな可能性や”IF”を詰め込むことができる。今の時代の創作の形にとって、それは貴重なアイデアの種になる。

 

 コンテンツが飽和して、完全な新しいものなどほぼ生まれないこの時代。今の創作は0から作るのではなく、既存のものを自分なりに切り貼りする事だ。クエンティン・タランティーノ監督のようなオマージュ、引用、サンプリングの集合体が今の創作とも言えなくもない。それでも切り貼りやエディット、サンプリングにも技術やセンスが必要で、今でいう創作センスや技術の良し悪しとはそれだ(ついでにタランティーノ映画はそのセンスが最高に上質で優れているから頭一つ出ているのだと思う)。

 

 そしてこの星を継ぐもの。自身のアイデアの引き出し(つまりセンス)の中身を増やすにあたり、これほど大きな存在感のある作品を、俺は今まで見逃していたのだ。

 

 序盤におけるチャーリーの存在も、先に世に出ていた「2001年宇宙の旅」のモノリスや他のSF小説等でも使われていたものと似通ったアイデアであることは本の末尾にある解説にて語られてはいたが、今の時代から見てみれば似てるようで大きく違うように思える。進化を促す存在としてのモノリス(それをきっかけに巡り巡ってスターチャイルドになること)と、かつて遠い別のところで在った人類文明の謎を究明するきっかけとなるチャーリーとでは、やっぱり全然違う。それぞれから得られるアイデアやセンスも全く別のものだ。

 

 リアリティのある近未来SF(ヴィデオ電話も最早メチャ一般的だしな!)の延長線上に、ルナリアンやガニメアン、果てはミネルヴァといった”存在した惑星”といったものまで自然に溶け込ませることのできる世界。それを1冊の小説に収めていること。そしてそれと今まで出会えていなかったこと。

 

 繰り返しになるが、引き出しを増やしたい作り手としてはもっと早くから知りたかった悔しさとそれでも新たな知見を得た喜び、まだまだ面白いものがこの世にはあるんだなと、受け手としては新たなジャンル開拓と面白い作品を読めた喜び。色々と複雑だけどそれでも読めてよかった一冊だった。