ワイルド・サイドを往く

”自分の”、”””””自分の”””””思った事を書く場所。好きな事や嫌いな事、コンテンツへの感想や思った事、気になってること、なんとなくもやもやしていること、果ては常人やそれに近い人が見るとウワァと思うであろうこと。人より文章の質や洞察力が劣ったものが出てもそれは仕方がないとして下手な背伸びはせずに書いていく。

ガンダムNT雑感想

 とりあえず感想を書くリハビリ的な意味も込めてラフに書こうという試み。優れた洞察や考察のできる感想を書こうとどうしても意識してしまって手が止まってしまうの良くない。勢いでかく

 

 プライムに来てたけど観よう観よう思って観てなかった。年始にウォッチパで(2回目の)逆シャアを観る機会があったので、その勢いで視聴。

 

 サブスク時代の到来でようやくガンダムシリーズを観た程度で、初代、Z、逆シャア、UCぐらいしか観ていない。まぁゆるーっとガンダムを履修してる人間の感想みたいな(履修とか使うぐらいのウェイト)、そういう内容になる。

 

 ストーリーは正直あんまり面白く思えずフーンという感じだったので、無理にひねり出そうとするとかえって手が止まるのでやめよう。まぁ本来そういう所も言語化するのが感想というものだがあんまウェイトかかってないリハビリ文章なので許した方がいいと思う。ガバがあってもしょうがない

 

MSの戦闘シーン自体は普通に見れたというか、特別褒めたくなるほどではないが貶すほどでもない。と言っても挙げたところで

「やっぱ人型の戦いにおけるある種の強さの表現としてのファンネルってもうある程度鉄板なんだなー」とか、

「こんなしょうもない開戦で市民がガチ大量に巻き込まれんの不憫だなぁ」とか、

「低空飛行で抜き身サーベルおかまいなしでコロニーにばりばり被害出してる所とか敵のワル描写がストレートだなぁとか」とか、

ビームサーベルに当たった雨蒸発する描写ええやん」とか、

「頭部のバルカン砲の音がミニガンみたいなリアルなSE使って強そう感増してかっこよかった」とか、そういう感じの印象が主に残った。記憶力低いんや。

サイコフレームの資材ばら撒くシーンとか、「強い力を使うためには相応のリソースを」って感じで、サイコミュ自体はメチャ強ほぼなんでもありみたいな描写してても相応の触媒は必要って感じで書いてる所はある意味ファンタジーとSFのギリギリを歩いてるなぁという印象。

 というのも、創作で魔法の設定的なものを色々妄想してたりすると、魔法のための触媒問題にブチ当たっていた。ズバリ質量保存の法則を守るか守らないか。「わかんないけどふしぎなすごいちから」ではあまりにも面白くないので、そういう所含めいろいろ細かく設定とか考えたいなぁと思っており、質量保存の法則をある程度守った上で行使される魔法っぽい現象、力の表現の解釈の一つに、ガンダムNTサイコフレームをバラまくのに似たことを考えては

「ウーンどうなんだろうその度にキャラクターが触媒となる物質をいっぱい持ち歩くの絵的になー結局銃使う時予備マグいっぱい持つのとあんま変わらんしなー」

とか思ってたので(個人の行使する魔法、魔術とかそういう力は、身一つ又は携帯できるアイテム幾ばくかだけで行使できる力であってほしいので、銃のようにマガジンやマグポーチなど要求されるのはNGと思っている。あと継戦能力の観点からも)、今回のNTのように特殊で限定的な状況といえどバッチリと描写されたのはめっちゃ個人的な見て良かったポイントになった。少しだけ。

 

 フェネクスがずっと飛び続けてるみたいなのはもうなんというか別のジャンルだなぁというのは正直感じる。UC後に続く物語だから、それ以上のトンデモ現象は起きてもまぁありえそうだなぁとは思ったが、そこまでやったかーという感じ。世界や描かれる物が別ジャンル化していく事もニュータイプサイコミュの力の範疇と捉えればある種ロマンのあるものかもしれない。けどォ…みたいなせめぎ合いはちょっとある。まぁその別ジャンル化するほど発達したサイコミュやNTといったものが、人類にはまだ早いってのは作中でも言われてて、落としどころとしてはまぁそんな受け入れ方になるよなーって具合。

 

 キャラクターは正直新規キャラは誰も印象に残らなかったといっても過言ではない。ヨナが主人公パイロットなのに実力としてはそんなに強くないのは良いが、その分別に長所が欲しかったなぁという。感覚的な印象としては泣くかへこむかヤメボーンだったので…。

「ヒロイン(ゴーストインザMS)と主人公(パイロット)が一体となって戦う」をストレートに描写するのは、まぁ好きな人は好きそうな感じなのかもしれない。「凹凸が一つになって~」という描写にしてはヨナが凹すぎてリタが凸すぎるなぁとは思った。ヨナはただの起動キーって感じがしなくもない。

 バナージが主張しすぎない謎の謙虚さが勝手ながら良いバランスだなぁと思った。画面に映る時間はおろか顔もあんまり出さなかったのはなんかUCに頼り過ぎない感じがあった。

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思いついたまま書いたクッソ雑な感想だけどまぁこんなんでもいいから2022年は継続しよう。

【A Short Hike】ほのぼのエモーショナルアクションアドベンチャー【ほぼネタバレなし/感想】

 ゲーム画面を見かけて以来気にはなっていたけど、色々と忙しかったりタイミングが悪かったりして、ようやくSwitchで買ってプレイしてみた。

 

 まず目を惹いたのが、カラフルな色彩と、ピクセルシェーダのひと昔前風なゲーム画面だ。DS時代のグラフィックを思い出させる。こういうゲーム画面に夢中になっていた世代としては好みドンピシャだった。【親の車に乗ってどこかへ行く】というオープニングも相まって、どこかノスタルジーを感じる。この時点でもう心を動かされていた。

 

 個人的な好みだけでなく、ゲームとしてできることも多彩だ。

 

 まず言いたいのは移動の快適さ。主人公は鳥なので、走ったりジャンプしたりして島を探索するだけでなく、飛んだり滑空したりして自由に島を飛び回ることができる。有名なタイトルで分かりやすくシステムを説明するならば、『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド』のパラセールのように滑空したり、『風ノ旅ビト』のスカーフのような回数制限付きで羽ばたくことでジャンプよりも上昇することができる。この飛行回数は黄金の羽根というアイテムを集めることで増やせる。また、羽のリソースは羽ばたく回数だけではなく、地上でのダッシュにも適用される。地上や空中での移動が自由かつ快適で、マリオシリーズと同じように『キャラクターを動かしているだけで楽しい』というのが素晴らしい。

 快適なムーブメントで気の向くまま島を走ったり飛んだりして、気になるものを見つけては調べてたり拾ったり。【探して、見つける】というシンプルながらも普遍的なゲームの楽しさがしっかり丁寧に作られていた。

 

 さらにアイテムでできることも豊富だ。釣り竿やスコップで魚を釣ったり、地面の気になる箇所をあちこち掘ったりすることができる。さらにツルハシやバケツなど、アイテムを拾うごとにできることが増える楽しさは、どうぶつの森ゼルダの伝説に通じるものがあった。

 

 NPCとの会話も、話しかければ話しかけるほど色々な反応を見せてくれるので積極的に話しかけたくなる。翻訳もしっかりしてて違和感を覚えるような瞬間は一度もなかった。

 ピクセルシェーダで描かれるデフォルメされたキャラクター達は背景も相まって暖かみのある魅力がある。一番目にする主人公のクレアがやっぱり良い。特にアイテムを入手したときにあのくりくりした目をして両手(というか翼)をスーッと掲げるあの動きがかわいくて好きだ。

 

 そして音楽も素晴らしい。場所や行動によって曲はフェードして切り替わったり止まったりするインタラクティブ性も技術的にポイント高いが、曲そのものがシンプルに良い。好き。癒し。アコースティックな音色を中心に、キャッチーで爽やかなメロディーが自分の行動に合わせて移り変わってくれる。

 特に好きだったのはボートに乗った時の曲『Boat Buds』だ。軽快なアコースティックギターをバックに奏でられるアコーディオン(多分)やトランペット(多分)のメロディーが爽快に気分を盛り上げてくれる。癒されながら高揚感を持たせてくる素晴らしい曲だった。そしてこの曲はボートの速度によって音が加わったり減ったりしてインタラクティブに変化してくれて、曲との一体感を感じながらボートで海を駆けることができる。島が舞台なのでボートでやる事と言えば外周を回ることなのだが、欲を言えばこの曲を聴きながらボートでしか行けない場所がもっと欲しかった。この曲で未知の場所を進んでいたかったなという思いが残った。それぐらい『Boat Buds』が好きだ。

 

 ゲームの本筋の目的はかなりシンプルで、詳細を省いて言えば【島の一番高い場所に登ってみる】だ。だからゲーム内で描かれる時間というのはごく短い間の出来事なのだが、その主目的の他にできることが豊富にあるので、プレイした自分もゲームの主人公のクレアも【短いのに濃密な一時】を過ごすことができる。

 

 『A Short Hike』をクリアして確信したのは、やっぱりゲームは【短い時間や小さな空間を遊びや楽しい要素で満たす】事が大事なのだと言うことだ。空間や時間の広さそのものではなく、ある一定時空間にどれだけの要素がたくさんあるのかが、ゲームとしての面白さに繋がっているんだと思う。

 ”要素がまばらに配置されたオープンワールドよりも、作り込まれた小さな空間の方がゲームとして楽しい”みたいなことをGMTKでも言っていた。これはゲーム内で描かれる時間にもある程度あてはめられるのだろうなと思う。

 ゲーム内の時空間の広さや長さに対して、それらの遊びや要素を消化するまでどれだけ時間がかかるのかが、ゲームの密度と言えるのかもしれない。

 

 このゲームのタイトルは『A Short Hike』だ。短いハイキング。このゲームをゆったり隅々まで堪能し尽くすなら、多分間違いなくゲーム内で描かれた時間よりも長い間遊ぶことができる。それは決して"short"などではない。にも拘わらず、ゲーム内の物語的な時間も、タイトルも、【遊べる要素はいっぱいあっても、これは短い一時のお話です】と伝えているのだ。これすなわち前述した【小さな空間、短い時間を、遊びや楽しい要素で満たしている】事そのものじゃあないのかと。こんだけ作り込んでてもそう言い切れる潔さはある種かっこよさすら覚えた。

 

 ゲームからは切っても切れない暴力や敵や戦いといった要素は一切なく、それ以外の楽しい要素を詰め込んだ密度の高いゲームは遊ぶだけで癒される。癒されると同時にすげぇなーって思いながら山頂にたどり着いた時、思わず演出や会話で涙目になってしまった。だからこの記事を書いた。

 

 ほのかなノスタルジーと、ゲームとしての根源的な楽しさを詰め込み、短くもエモーショナルな物語と演出でそれらを【濃密な一時の体験】へとまとめ上げた一作『A Short Hike』。最高のゲームだった。

 

リーサル・ソルジャーズ(All the Devil's Men)ネタバレなし感想

 一見パッとしないタイトルだし、実際何も知らない時はアマプラで見かけてもさほど気に留めていなかったが、とある情報を目にして視聴を決めた。

 

 一部のガンアクション好き、ミリオタ、銃オタク辺りはひょっとしたら知っているであろう「The Veteran」の監督が撮っている映画だったのだ。日本では未公開だし日本語版すらないのだが、リアルでクールなAR-15によるガンファイトシーンのムービークリップが巷で話題になり、俺もそれでこの映画の存在を知っていた。

 

 そういった事から、「かっこいいガンファイトが見たい」という目的や期待を持った方には、十分オススメできる映画だ。

 

 タッグによる銃撃戦での連携描写が最高にかっこいい。飛んだり跳ねたりといったド派手さはないが、「プロの戦い」を役者の動きやキャラクターの行動で描かれることで堅実でクールなかっこよさがある。例えば「片方が援護射撃をして、もう片方が移動。それを交互に繰り返して敵に攻撃させずに移動する」という、「援護射撃(制圧射撃)」というものを丁寧に映しており、ガンアクションというよりもガンファイトをリアルに映している。

 

 撃つ瞬間の構えた姿をしっかり映し、撃ってから射手と狙う先を一枠に収め、「誰が何を狙っている」のかが分かりやすく、またそれによって相手がひるむのもバッチリ映すため、特にわかりやすい会話がなくとも、「その銃撃や戦闘で何を目的としているのか」が理解しやすい。「敵を撃たない銃撃」の意味をしっかり事象に表してるので、銃や銃撃戦に詳しくなくとも、戦闘状況やそれぞれの目的は分かるはずだ。

 

 ジョン・ウィックシリーズもそうだが、最近のアクション洋画は「闘う姿のかっこよさと戦闘状況の分かりやすさ」を意識してる映画が増えてて嬉しい。もちろんこの映画も例に漏れていない。

 

 あえて悪く言えば地味なアクションと言えなくもないかもしれないが、この「リアルなガンファイト」が映画全編に一貫して存在する緊張感、シリアスさと非常にマッチしてて、ザックリ言うなら静かでシリアスなかっこよさがある。「ボーダーライン」や「ゼロ・ダーク・サーティ」みたいな雰囲気と似てるともいえるだろうか。

 

 さらに言うなら、主人公サイドも敵も作中はほとんど銃にサプレッサーをつけており、銃撃戦は比較的静かなものが多い。これもある意味珍しい特徴と言えるが、ただ珍しいだけじゃなく展開の緩急にも一役買っているのがなんとも構成としてニヤっとできる。

 

 ストーリーは、そういったかっこいいガンファイトたちをいかにして繋がっていくかの理屈付けのためにあると捉えて見た方が、少なくともガッカリはしないと思う。邦題や原題である程度想像できる通り、勧善懲悪、エンタメ的なカタルシスみたいなものはほぼないと言っていい。タイトル通り、これは死の兵士たちが、悪魔共が殺し合いをするさまを描いた映画だ。

 

 

 ……こういう誰に見せるというわけでもないブログでネタバレのない感想なんか書いてもしょーがねーだろとはここまで書いてて自分で思ったんだが、なんというかネタバレを含めて書くほどストーリーに関して言いたいことはあまりなかった。とはいえコンテンツの感想を書く癖をこうして少しずつでもつけていきたいな。

【星を継ぐもの】ひょっとするとこの気持ちがセンス・オブ・ワンダーって奴か!【途中までネタバレなし感想】

「星を継ぐもの」を読んだ。

 

 このタイトルに関する最初の記憶や印象は、長いようで大して長くないインターネット潜り歴の中ぼんやりとなんとなく見たことがあるようなないようなタイトル、といったとてもおぼろげなものだった。そしてそれはクソゲーと名高い「星をみるひと」と混同していたことによる誤解であると気づいたのは、メタルギアシリーズやボクらの太陽シリーズ、最近ではデス・ストランディングでも有名な小島秀夫監督の著作、「創作する遺伝子:僕が愛したMEMEたち」で一番目に紹介されていたからだ。

 

『月面調査員が、真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。綿密な調査の結果、この死体はなんと死後5万年を経過していることが判明する。果たして現生人類とのつながりは、いかなるものなのか? いっぽう木星の衛星ガニメデでは、地球のものではない宇宙船の残骸が発見された……。』

 

 これは様々な販売ページ等に載っているあらすじだ。この情報の量は、創作する遺伝子で語られているものと大差はなかった。

 

「”ハードSFと謳われ”、”小島監督が絶賛”し、そうでなくとも”SF小説の金字塔”のような扱われ方をしているものが、このあらすじに提示されている二つの大きな謎に対し、SF小説として絶賛されるだけの答えを用意している」

 

 これはフィクションだ。だがSFだ。"サイエンス"だ。こんな大きな謎に対しフィクションでもサイエンス的な答えがあるのだ。ジャンル的に見ても、評判を見ても、期待する価値はあるし、読んで損はしない安心感があった。どっしりと「星を継ぐもの」は自分を待っているようだった。

 

 SF小説らしいSF小説なんてほとんど読んでこず、せいぜい洋画やゲーム、有名な伊藤計劃の小説ぐらいでしかSFを知らない自分にとって、これは十分に興味の惹かれるものだった。なんというか漠然と、「スター・ウォーズよりしっかりめなSFでなおかつ面白そう」という印象を抱いた。スターウォーズをディスっているわけではない。子供の頃から今でも大好きだ。"SWに関わっているディズニー"は嫌いだが、ダークサイドが目を覚ます前にこの話は止そう。

 

 ともあれ、作品を知り、興味も持った。買う理由は十分だ。買うまでに期間は若干空いたが、まぁ買って読んだのでよしとしてくれ。

 

 活字を読む頻度が最近は少なかったため、読むスピードはかなりまちまちだった。なにせ古い本ゆえに見慣れぬ言い回しや単語があったりしてつまづくし、SF用語や宇宙技術関連の用語もあったりして、正直書かれている描写をしっかり脳裏に想像できていたかというと”ノウ”だ。だがそれでも行ったり来たりを繰り返して物語を追うことはできる。そしてその物語、いや謎がなんともまた興味深い。

 

 そう、感覚としてはやはり、物語というより謎を追っている楽しさだ。謎とはつまり未知だ。なんというか、王道に未知を追うSF小説なのだ。近未来で、今現在にはない技術だとしても、その世界では科学的に成立している技術で、科学者たちが頭を悩ませ手足を動かし調査し考察し未知を追う。一つの謎が解明されたかと思ったら、新たに謎が見つかり、それを解き明かしたと思ったらさらにまた新たな謎が浮かび上がる…。それを繰り返して少しずつ答えにたどり着く。それを俯瞰的なポジションで追体験するのがこの「星を継ぐもの」だ。

 

 タイトルの意味に関して言えば、正直コンテンツが飽和しきった今じゃ根拠もなく予想しても当たらずとも遠からずではあったが、それでも最後まで読んだところ当たってはいなかった。そこは確実に期待を越えた点であると言える。

 

 活字慣れしていなければすんなり頭に入ってこないが、しっかり読み進めて得られる答えへと進む快感、そして答えそのものの、フィクションだがサイエンス的な、「起こりうるかもしれない、起こりえたかもしれない」性質。それらが合わさることで、”リアリティがありながらも面白いSF小説”に出来上がっていたのだ。……何十年も前に。

 

 なぜもっと早くこの本を知ることができなかったのだろう。もっと多感で可能性に満ち溢れていた時期にこの小説と、いや、このセンス・オブ・ワンダー(覚えたての単語言いたいだけ)と出会えれば、ひょっとするともっと違う自分がいたのかもしれない。

 

ここからネタバレ有。あと本編にほぼ関係ない自分語りに近いので注意

 

 小説書いたりゲーム作ったりして、”一つの異世界を作っている/作ろうとしている”自分としては、

「こんな古い小説で既に、SWよりは地に足ついてるSF的な視点で、地球外で人類の別の文明が栄えていたという設定が丁寧に描写されていた。そう思わせられた作品があった」

というのがなんとも読者として興奮したし作る側としてショックだった。いやマジでもっと早く知りたかった。中高生ぐらいの時に読んでればもっと自分の創作のヒントになったな~っていう思いがずっと心の中にある。

 ここで重要なのは地球以外の場所でってコトすよ。じゃあもしミネルヴァが滅んでなかったら? ルナリアンが戦争をやったり惑星間航法の開発に躍起にならないでよかったとしたら。(月に関してはちょっと目を瞑るとして)地球とミネルヴァの二つの星で同時に文明が栄えていたらどうなっていただろう。そしてその二つの星で栄えてきた文明がいずれ出会う時どうなるだろう。地球の文明もミネルヴァの文明も、圧倒的な差があるかもしれないし、ないかもしれない。そこにもそこ以外にも、想像次第でいろんな可能性や”IF”を詰め込むことができる。今の時代の創作の形にとって、それは貴重なアイデアの種になる。

 

 コンテンツが飽和して、完全な新しいものなどほぼ生まれないこの時代。今の創作は0から作るのではなく、既存のものを自分なりに切り貼りする事だ。クエンティン・タランティーノ監督のようなオマージュ、引用、サンプリングの集合体が今の創作とも言えなくもない。それでも切り貼りやエディット、サンプリングにも技術やセンスが必要で、今でいう創作センスや技術の良し悪しとはそれだ(ついでにタランティーノ映画はそのセンスが最高に上質で優れているから頭一つ出ているのだと思う)。

 

 そしてこの星を継ぐもの。自身のアイデアの引き出し(つまりセンス)の中身を増やすにあたり、これほど大きな存在感のある作品を、俺は今まで見逃していたのだ。

 

 序盤におけるチャーリーの存在も、先に世に出ていた「2001年宇宙の旅」のモノリスや他のSF小説等でも使われていたものと似通ったアイデアであることは本の末尾にある解説にて語られてはいたが、今の時代から見てみれば似てるようで大きく違うように思える。進化を促す存在としてのモノリス(それをきっかけに巡り巡ってスターチャイルドになること)と、かつて遠い別のところで在った人類文明の謎を究明するきっかけとなるチャーリーとでは、やっぱり全然違う。それぞれから得られるアイデアやセンスも全く別のものだ。

 

 リアリティのある近未来SF(ヴィデオ電話も最早メチャ一般的だしな!)の延長線上に、ルナリアンやガニメアン、果てはミネルヴァといった”存在した惑星”といったものまで自然に溶け込ませることのできる世界。それを1冊の小説に収めていること。そしてそれと今まで出会えていなかったこと。

 

 繰り返しになるが、引き出しを増やしたい作り手としてはもっと早くから知りたかった悔しさとそれでも新たな知見を得た喜び、まだまだ面白いものがこの世にはあるんだなと、受け手としては新たなジャンル開拓と面白い作品を読めた喜び。色々と複雑だけどそれでも読めてよかった一冊だった。

 

 

優しさとか涙とかについての駄文

 風呂場でぼんやり考えてたことを文章化。

 

 優しいと時たま人から言われることがある。事実、フィクションから得たミームとして、そういったムーヴをできるだけやろっかなァ~みたいな意識をだいたい日常的に持っている。フィクションに肯定されたい人間だから。砕いて言うと「フィクションっぽいことをするの楽しいよね」というアレ。子供のごっこ遊びの延長線上にある行動原理だ。実に単純で中身のないこと。

 

 で、そのごっこ遊びの結果褒められることもあるが、果たして”優しい人間”という評価は価値があるモノなのだろうか。

 

 価値があるか否かはというのは、0か1かという話ではなく、人間を評価する上で挙げられる他の要素(「頭の回転が速い」、「面白い」、「筋肉」等)と比べて価値があるのかという話。優しさに価値がなかったら肯定的に使われたりしないからね。

 

 何かに対して優しくすることができない人間っていうのは、おそらくほとんどいないだろう。何故なら、誰だって結局自分のことは大好きだからだ。それは本能レベルでも、理性的なレベルでも結局はそう。自分のことが嫌い嫌いと言うのは、あくまで「他と比べて劣っている自分の要素」が嫌いなのであり、それを抱える「自分という器そのもの」が嫌いなわけではないのだ。例えばの話だが、並行世界の自分がもしその「嫌いな要素(要は短所)」を持っていなかったとしたら、その自分は自己嫌悪するだろうか。俺はしないと思う。

 

 少し話は変わるが、”人は自分のために涙を流す”という話がある。でも人間は家族や恋人といった、自分以外の人間が死んだ時や、何か映画やフィクションを見た時に感動して涙を流す。

 

 それはその自分以外が、自分にとって自分の事のような存在になっているから。もしくは、他のものに自分を重ねて(感情移入)いるから。

 

 「他者や他のものが自分を構成する上で必要なピースになっており、それらが失われること」=「すなわち自分が欠けること」を意味するからだと思う。

 

 だから人間は人のために涙を流すように見えて、実のところ自分のために涙を流している(又は勝手に自分の事のように想像して涙を流す)。


 そこで人間は自分が大好き、という話に戻ってくる。自分が大好きだからこそ、今の自分に必要な他の存在というのは、自分の事のように大切なものになる。故に人は、何かに優しくすることができる。それは友達だったり、恋人だったり家族だったり。人じゃなくても、ペットのような動物や物などにもそうだろう。

 

 まぁ、自分の事のように思っている存在が思うように動かなくて納得がいかない、というのもあるんだろうけど。だからこそ親は子供に怒鳴り散らしたり、カップルや友達同士はケンカする。MGSシリーズのオセロットみたいに自分の片腕が思うように動かなかったらそら良い思いはしないだろうし(まぁオセロットは自己暗示だったんですけどね、初見さん)。

 

 さて。だとすると、いくつものコミュニティによって形成されているこの社会において、他者への優しさは価値あるものとなりえるのだろうか。俺やネットに入り浸っているような奴らはともかく、世の中の大半の人間は何かしらのコミュニティに所属し、自分の事のように大切な他のものをいくつも持っている(それを自立と呼ぶとかどっかで聞いた気がする)。人一人が優しくできる人間がそう多くなかったとしても、六次の隔たり的なノリで言えば、その欠員をたくさんの他者が補い合っている。結果、社会は大半の人間が誰かに優しくし、そして優しくされている。

 

 そう考えていると、”優しい”という評価は、あまり価値のあることのように思えなくなってくる。そんなものより、頭の回転が速かったり、面白い話ができたり、筋肉めっちゃある方がよっぽど価値が高いと実感できる。

 

 だから、”優しい人間”という評価は、他に褒める点がなく、常識的な振る舞いができるだけの無個性な人間に対して贈られるせめてもの社交辞令な気がしてならない。

 

 フィクションで主人公等を描く際、優しい性格というのは読者や視聴者、ユーザーに不快感を与えない便利な要素としてその良さを発揮することができる。だがこの現実を、第四の壁を超えて見守る観客はいない。観測できない以上そんなものは現実には存在していないのだ。フィクションの教える優しさを受け売りするのも少し考えものなのかもしれない。

 

 現実で優しさを自分の長所のメインに据えようものなら、自分は無個性でユニークスキルなんもないクソモブですと宣言しているようなものなのかも。優しさはあくまでサブアーム、メインアームにはなりえない。

 

 人間は不快に思うものには声を上げるが、不快じゃない”だけ”のモノには特に気にしない。誰かに優しくしても、他者にとってはきっとその程度のモノでしかないのだ。