ワイルド・サイドを往く

”自分の”、”””””自分の”””””思った事を書く場所。好きな事や嫌いな事、コンテンツへの感想や思った事、気になってること、なんとなくもやもやしていること、果ては常人やそれに近い人が見るとウワァと思うであろうこと。人より文章の質や洞察力が劣ったものが出てもそれは仕方がないとして下手な背伸びはせずに書いていく。

優しさとか涙とかについての駄文

 風呂場でぼんやり考えてたことを文章化。

 

 優しいと時たま人から言われることがある。事実、フィクションから得たミームとして、そういったムーヴをできるだけやろっかなァ~みたいな意識をだいたい日常的に持っている。フィクションに肯定されたい人間だから。砕いて言うと「フィクションっぽいことをするの楽しいよね」というアレ。子供のごっこ遊びの延長線上にある行動原理だ。実に単純で中身のないこと。

 

 で、そのごっこ遊びの結果褒められることもあるが、果たして”優しい人間”という評価は価値があるモノなのだろうか。

 

 価値があるか否かはというのは、0か1かという話ではなく、人間を評価する上で挙げられる他の要素(「頭の回転が速い」、「面白い」、「筋肉」等)と比べて価値があるのかという話。優しさに価値がなかったら肯定的に使われたりしないからね。

 

 何かに対して優しくすることができない人間っていうのは、おそらくほとんどいないだろう。何故なら、誰だって結局自分のことは大好きだからだ。それは本能レベルでも、理性的なレベルでも結局はそう。自分のことが嫌い嫌いと言うのは、あくまで「他と比べて劣っている自分の要素」が嫌いなのであり、それを抱える「自分という器そのもの」が嫌いなわけではないのだ。例えばの話だが、並行世界の自分がもしその「嫌いな要素(要は短所)」を持っていなかったとしたら、その自分は自己嫌悪するだろうか。俺はしないと思う。

 

 少し話は変わるが、”人は自分のために涙を流す”という話がある。でも人間は家族や恋人といった、自分以外の人間が死んだ時や、何か映画やフィクションを見た時に感動して涙を流す。

 

 それはその自分以外が、自分にとって自分の事のような存在になっているから。もしくは、他のものに自分を重ねて(感情移入)いるから。

 

 「他者や他のものが自分を構成する上で必要なピースになっており、それらが失われること」=「すなわち自分が欠けること」を意味するからだと思う。

 

 だから人間は人のために涙を流すように見えて、実のところ自分のために涙を流している(又は勝手に自分の事のように想像して涙を流す)。


 そこで人間は自分が大好き、という話に戻ってくる。自分が大好きだからこそ、今の自分に必要な他の存在というのは、自分の事のように大切なものになる。故に人は、何かに優しくすることができる。それは友達だったり、恋人だったり家族だったり。人じゃなくても、ペットのような動物や物などにもそうだろう。

 

 まぁ、自分の事のように思っている存在が思うように動かなくて納得がいかない、というのもあるんだろうけど。だからこそ親は子供に怒鳴り散らしたり、カップルや友達同士はケンカする。MGSシリーズのオセロットみたいに自分の片腕が思うように動かなかったらそら良い思いはしないだろうし(まぁオセロットは自己暗示だったんですけどね、初見さん)。

 

 さて。だとすると、いくつものコミュニティによって形成されているこの社会において、他者への優しさは価値あるものとなりえるのだろうか。俺やネットに入り浸っているような奴らはともかく、世の中の大半の人間は何かしらのコミュニティに所属し、自分の事のように大切な他のものをいくつも持っている(それを自立と呼ぶとかどっかで聞いた気がする)。人一人が優しくできる人間がそう多くなかったとしても、六次の隔たり的なノリで言えば、その欠員をたくさんの他者が補い合っている。結果、社会は大半の人間が誰かに優しくし、そして優しくされている。

 

 そう考えていると、”優しい”という評価は、あまり価値のあることのように思えなくなってくる。そんなものより、頭の回転が速かったり、面白い話ができたり、筋肉めっちゃある方がよっぽど価値が高いと実感できる。

 

 だから、”優しい人間”という評価は、他に褒める点がなく、常識的な振る舞いができるだけの無個性な人間に対して贈られるせめてもの社交辞令な気がしてならない。

 

 フィクションで主人公等を描く際、優しい性格というのは読者や視聴者、ユーザーに不快感を与えない便利な要素としてその良さを発揮することができる。だがこの現実を、第四の壁を超えて見守る観客はいない。観測できない以上そんなものは現実には存在していないのだ。フィクションの教える優しさを受け売りするのも少し考えものなのかもしれない。

 

 現実で優しさを自分の長所のメインに据えようものなら、自分は無個性でユニークスキルなんもないクソモブですと宣言しているようなものなのかも。優しさはあくまでサブアーム、メインアームにはなりえない。

 

 人間は不快に思うものには声を上げるが、不快じゃない”だけ”のモノには特に気にしない。誰かに優しくしても、他者にとってはきっとその程度のモノでしかないのだ。